庭工カタログ
豊かな表情を持つ庭が私は好きです。
絵と同じように庭も限られた空間に作者が表現をします。
絵と違うのは、その描写が時間とともに移り流れるということです。
打ち水された石畳の面は表情が豊かになります。笑っています。
そして、楽しく踊っているようにも見えます。しばらくすると石は落ち着いてきます。
石面(いしづら)の水が少し渇いてきたころです。茶事における露地(茶庭)作法の所作はこの様な情景の中で進みます。
杉苔の上で紅や黄の彩葉が北風に促されて舞っています。観る者を凝然とさせる名演技は、杉苔の明るい緑の舞台装置に支えられています。
薄らと雪がつもるころ杉苔の明るい緑は表情を変え深淵な彩になります。
西日を受けた紅葉の枝のシルエットが障子の中でかすかに揺らいでいます。
葉が落ちてはじめてその小枝の多さに気がつきました。
薄氷が溶けた蹲踞(つくばい)で水浴びをしていたヒヨドリが鉢添えのウメモドキの赤い実をしきりに啄んでいます。昨日は南天の実を、その前は万両の実をひとつ、ひとつ首を傾げながら嘴(くちばし)に納めています。実がつきると佗助(わびすけ)椿の蕾に器用に嘴(くちばし)をいれてまわります。
レンギョウや、ユキヤナギ、トサミズキの混色合唱団がそろそろ出番になりました。
桜の花びらを頂くころには、杉苔の緑は再び光を反射しまぶしく輝きます。
樹々の新緑が深い緑に移り変わるころ、杉苔の上に夏椿の真っ白な花が静かに落ちはじめます。射すような日ざしの下で大きな羽音を出しながらヒヨドリが相も変わらず水しぶきをあげています。
晩秋が訪れ葉のさびしくなった紅葉の懐に、小さいけれど丹念に造られたシジュウガラの巣が残っていました。
季節が移り流れる庭のなかで新しい生命が育っていきました。
豊かな表情を見出せる庭づくりが私の願いです。
玄関庭
玄関庭としての空間構成を考えるとき、基本にすることは外に向かって出来るだけオープンにしたい、ということです。家人や訪れる人だけではなく、玄関前を行き来する人達にも楽しんでもらえる庭。それが私の目指す玄関庭です。
中庭
京都の町家は間口が狭く奥行きが長いことで知られています。間口にくらべ、奥行きがその5倍も6倍もある家もあれば、またそれ以上の家もあります。昔から鰻の寝床などと形容されています。家屋内部は、当然奥になる程陽光が届かなくなり、風通しも悪くなります。そのような、生活環境を少しでも快適にするために作られたのが、中庭の始まりです。生活するための必然的空間です。屋敷の中程か、少し奥寄りに作られた中庭は、一枚の絵を鑑賞するのと同じです。座敷の縁や渡り廊下から、隅々まで目が届きます。作る際にごまかしができません。例えば、花木を主体とした和らいだ感じの庭であろうと、また、石造品を据え付けて威厳をもたせた庭であろうと、手が抜けないということです。蹲踞(つくばい)の海に敷くゴロ太ひとつにも真剣にならざるを得ません。卓越した技をもつ庭師が京都に多いのは、庭園文化の伝統とこのような中庭造りの仕事を数多く手がける機会に恵まれているからだと私は思っております。
主庭
家人が一日の時間の中で、最も多く接する空間に作られる庭が主庭になります。例えば、石の存在を強調した枯山水。移り変わる花模様を楽しむ花木、草花主体の庭。材料をあまり使わない解放感のある庭。さまざまな樹木をうっそうとさせた緑あふれる庭。ポツンと灯籠を一基据え付けただけの庭。水を楽しむ泉水の庭。等々人によって好みがそれぞれ違うように、主庭の形態も無限にあると思います。肝要なことは、家人も気がついていない潜在する好みを庭師がいかに的確に引き出すかであると考えます。
茶庭1(露地) 茶庭2
利休が茶庭の心意として引用した西行の歌があります。
樫の葉のもみじぬからに散りつもる。奥山寺の道のさびしさ、これは、鎌倉武士の身分を捨てて、更に家族と訣別し出家した西行が放浪する旅のなかで詠んだ歌です。席入りの前に俗世から自己を解き放し、所作に集中するための露地の形態は、このようなさりげない自然の風情の中にあります。
石づかい
人を見るときに、ハッとするような表情に出会うときがあります。そのようなときに「あの人の笑顔は美しい」とか「あの人の横顔は魅力的だ」等と表現します。私は石にもそれを同じものを見出したいのです。微笑んでいる顔。泣いている顔。憂いている顔。怒りの顔。挑戦的な顔。何かを待ち侘びているような顔。等々の顔を持つ石から一番魅力を感じる顔を引き出すことを常々心掛けています。美しい顔だけを選んで石を組むよりもその石の本性がわかるような顔を選びたいと思います。
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